注連柱
参道階段の途中左に
平家乃宮の看板
地 図
五輪塔前からの境内
説明書に書かれていたとおり通盛主従が眠る、ひっそりと苔むした小さな墓
拝殿前からの注連柱
拝殿と本殿、
右は神輿庫?
本 殿
拝 殿
拝殿前
参道階段を上がると正面に拝殿
参道の左は広い駐車場になっています
最初の参道階段を上ると、立派な石畳の参道
所在地
広島県福山市沼隈町大字中山南2022
由 来
創建は建久三年(一一九二)で平三位越前守通盛をまつり、御神体には通盛公の自彫りと称する、通盛と小宰相の座した木像を祀っています。当初この神社は、南へ二百メートルの喜勢と呼ばれる地にあったものを、度重なる水害より守るため、江戸時代に現地に遷宮されたものです。
その昔この宮の祭りには、常石や千年の海浜より平家蟹が参拝したとの伝へもあります。
足利義満公のうたに 「よるべなき 身は今蟹と生れきて 波の哀れに しづむ墓なき」と詠まれています。また、「スポカズキ」といわれ祭りにはカヤを頭よりかむり踊っていたものです。その名残かこの地区の盆踊りは、手はあまり動かさなくて、足だけ動かし踊っています。
現在の御殿は明治三十三年(一九〇〇)に建て替えられ、棒材は伊豫の国(愛媛県)より運ばれ、松材はこの谷の系列神社貴船神社のものが使用されています。
この宮は、通称「平家さん」と呼ばれ男女仲を好くする神社として親しまれています。
平 通盛(本名 公盛)平清盛の弟、教盛の長男で久安又は仁平年間(一一五〇年頃)の生まれと想われ、能登守教経は弟です。小宰相への恋歌に 「わが恋は 細谷川の丸木橋 踏み返されて 濡るゝ袖かな」と詠んでいます。
小宰相の局 藤原則方の娘で、のちの上西門院(鳥羽天皇の皇女)に仕えていました。禁中(宮中) 一の美女といわれていた。
平家谷由来
その昔、屋島の合戦後平家の武将主従が隠れて住んだ地で、関連のある地名が、鐙の峠・乗り越・刀岩・殿迫・殿方の前・喜勢・馬通し・弓場・的場など数多く残り、また白を忌、この谷には白鳥も舞い降りず、綿を作付した僧侶の一家は伝染病にかかり綿も稔らなかった、と伝へられ衣服も他の色に染めて着ていたようです。
神社の配布誌より
手水石の紋は平家伝統の揚羽蝶
手水舎
創建八百年記念の五輪塔とタイムカプセル
道路脇に付近の名所案内板
:県道72号線から分かれて約25分、ここ迄は道幅も広かったが、この先は離合も難しい、
その分岐の中央から通盛神社への参道が始まっている
五輪塔の後ろに記されています
駐車場に掲示された通盛神社の説明書