堂々公園続きの六番砂留の上端部で水遊びをしている子供達
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 所在地  広島県福山市神辺町 (左岸所在地:下御領 ・ 右岸所在地:西中条、湯野)
堂々川で砂留普請が本格的に進められたのは阿部正福藩主時代のことになる。これは享保2年(1717年)福山藩史上初めての百姓一揆が起こりその中で農民は農地保全を藩に懇願し、正福は農村再建としてそれに答えたことにより、砂留普請が進められていったと考えられている。

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一番砂留
最も下流側にあり、流域で一番最初に造られた砂留と考えられている。元々は堤長10間7尺(約20.3m)。現在のものは明治以降に増改築した左岸側袖部のみが残っており、砂防堰堤としては機能しておらず、迫山砂留がその代わりを務めている。

 上 ・・・ 一番砂留 
 下 ・・・ 迫山砂留
 一番砂留
 迫山砂留
二番砂留 
 二番砂留 
  二番砂留 上端部
 三番砂留
   1996年の発掘調査でもたれ式石殻擁壁体形式の詳細が判明した。
 三番砂留 上端部
 四番砂留 
 谷積の水叩きが設けられている。右岸側に長老塚池があったが1945年枕崎台風により決壊し埋まった。
 四番砂留 上端部
 五番砂留 
 石積方法から三番砂留の次に作らえたと考えられ、構造も三番と同じものと推定されている。西側の道路工事に伴い、右岸側の一部が取り壊されている。
 五番砂留 上端部
六番砂留 
 
 4層構造。安永2年の史料に「とうとう奥砂留3ヶ所」の記載があり、これがこの砂留の最下層部にあたると推定されている。日本最大規模の砂留であり地元住民から「大砂留」の愛称で親しまれている
 六番砂留 上端部

ここからの上流域が堂々公園になっている。
 堂々公園
 堂々公園内
   地 図
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堂々川砂留(どうどうかわすなとめ)