所在地  広島県福山市大門町大門535-1
この神社の旧称は五ヶ八幡という。大門は坪生荘に含まれ鎌倉時代の建長2年(1250)ころの坪生荘は京都九条家の支配地だったことが証明されている。鎌倉幕府が崩壊し南北朝時代のこの地は神原氏の支配となり、その神原氏は足利尊氏と対立した。隣の竹田荘を支配した鼓氏は尊氏に従い、この間で「仁井の合戦」が勃発。敗れた神原氏は自害し坪生荘は尊氏の支配となる。戦国時代になると神辺城主山名氏が坪生荘を支配した。しかし、大内氏と尼子氏の対立の中で天文7年(1538)、大内方の毛利、小早川両氏は尼子方神辺城主山名氏を攻め落とし、神辺城主となった大内氏の支配へと変わる。大内氏は坪生荘のうち引野、能島、大谷(大門)津之下、野々浜を分割して小早川隆景に与えた。これを五ヶ荘と称する。坪生荘には総鎮守社坪生八幡宮(新中八幡神社)が創祀されていたが、この年の秋、分裂した坪生荘を象徴するように各村が衝突し、ご神体や狛犬、神器等がてんでに持ち帰られ、ご神体である阿弥陀三尊は春日村が持ち帰り浦上八幡が創祀された。ところが大門八幡神社の縁起では、阿弥陀三尊を持ち帰ったのは大門村の三郎兵衛だとされている。それをしばらく津之下の池底に隠していたが、天文20年(1551)になって大内義隆は家臣であった陶春賢に殺され、小早川隆景は支配地五ヶ荘を平賀新九郎廣相に与えた。このことでご神体を奪ったことが旧支配者から追求される心配が無くなり、池より引き上げて現在の鎮座地である烏帽子山に祀ったのがここの縁起となっている。いずれにしても、荘園が分割され村が独立し発展していく中で各村に神社が創祀されていった。そうして創祀された大門八幡神社であるが万治元年(1658)に火災で社殿を焼失し再興。寛文9年(1669)には拝殿を造営。宝暦9年(1759)、寛政12年(1800)社殿修復。昭和9年に改築され、昭和54年、現、銀河学院が誘致され際に社地が削られて、現在地に本殿を遷座させ拝殿等を新築されている。
     備後の歴史を歩くコミュの大門八幡神社より
 国道二号線から山陽本線のガードを潜り、市道を大門駅方向へ、200mほどで参道入口があります
 参道入口
 大鳥居
 手水鉢
 大鳥居からの参道階段上がり口
 狛 犬
 参道階段
 参道階段からの大鳥居
 参道階段からの銀河学園グランド
 境内入口からの、拝殿
 手水舎
 拝殿入口
 拝殿入口からの境内
 本 殿
 拝 殿




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大門八幡神社(だいもんはちまんじんじゃ)