椋 山 城 跡
一の郭に残っている井戸
空堀跡
六十番地蔵の所にも同じ空堀跡がある
参道入り口から十数分で、参道脇に地蔵が数メートル〜数十メートル間隔に祀られている
一の郭からの服部
手前は二の郭
参道脇に祀られた地蔵
正面の木は服部八幡神社にある、樹齢300年以上の天然記念物 イチョウの木
この手前に椋山城跡への登山道入り口
市指定史跡 昭和63年(1988年)6月24日指定
この山城は,標高170mの椋山の山頂を本丸とし,北・西・南・南東に延びる15の郭と4本の空掘で構成された中世の山城である。小規模であるが各郭の保存状況は良く,福山地方の代表的な山城の一つである。
本丸一帯より採集した土師質土器,青磁破片,古銭(天聖元宝)などは,室町時代後半のものである。
椋山城の歴史については,この城が服部を領した桑原氏の本城であったことは『西備名区』,『福山志料』,『備後古城記』などに書かれているが,築城の時期については,詳しいことは不明である。石垣は残存しておらず,築城当初から構築しなかったものと思われる。
天文10年(1541年)大内義隆が出雲へ出発の時,桑原越中守通兼が従軍し,服部へ帰陣したことが諸書に記されており,「平川家文書」(『岡山県古文書集』第3所収)の天文10年2月2日付の実信感状により,この城がこの地方の一勢力の拠点であったことがわかる。
これらの史料により,天文年間にこの城がもっとも栄え,山城としての整備もなされたものと推察できる。
その後,桑原氏は毛利家の家臣として働き,中世の末(天正頃)この城は廃城となっている。
所 在 地 | 駅家町助元 | |
構造・年代 | 室町時代 |
参道入り口から間もなく分かれ道
城跡(本丸)入り口
城跡(一の郭)入り口
参道中途にある地蔵堂
分かれ道の脇に手水鉢
台石に何か書かれているが風化で読み取り出来ない
一の郭から服部永谷地区を展望
椋山城跡
現在は地蔵堂が建っている
合流(何処からの合流か?)
地蔵堂の背にある石板